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scriptus ante-scriptus

2019-01-09

平仮名字体研究の方法

18:36 | はてなブックマーク - 平仮名字体研究の方法 - scriptus ante-scriptus

はじめに

平仮名字体についての論攷は、いまだ盛んとは言いがたいものとはいえ、もはや二日三日で読み切れる数ではないものと思われる。しかしながら、それを専門とするものは少なく、いまだに他の専門を持つものの手すさびに論が行われる感がある。手すさびだから悪いなどといったことはないのにせよ、方法論においてオリジナリティを目指すのは、既存の研究の的確な批判のうえになされるべきであり、その気概がないのであれば、愚直に先行研究の方法を外れないでいてほしいものである。

既存の方法といっても、あまり方法論の論じられることのない界隈ではあり、古いものも流通力が強いゆえになかなか改まらないところはあるが(そのよしあしは措く)、字体研究をよくするものの間では、昨今つぎのような点が意識されることが多い。

現行の平仮名を基準に字体を認定しない

歴史的字体の峻別において、字母単位で認定を行うと宣言しながら、現行の平仮名かいなかについては特別の価値を置く(つまり、同一の字母において現行の字体かいなか区別する)研究が過去にはあった。現行の平仮名の成立を探ることに多少の意味があった時代ならばともかく、現行の平仮名が「いろは仮名」に基づくある種の人工性を備えることが実証的に動かしがたくなった昨今において、現行の字体かどうかに基準を置いても得られるものはとくになにもなく、たんに過去の動態の記述を妨げるものにすぎない。

そもそも、平仮名の体系において字母が特別な意味を持つことは実証されていないので*1字母以下を区別しないことに積極的な根拠はない。調査者が判断を放棄したことくらいは分かるが。

歴史的字体の区別に恣意的な要素があるのは否みがたい。Okadaのように恣意性を排除した方法論を持ち込むものもあるが*2、多くは区別の根拠を与えず、区別できそうなところを区別するに留まることが多い。平安期のように新造の平仮名が多い時代でなければそれでどうにかなってしまうところが大きいもののように思われる。

とはいえ、どうにかなるだけでは複数の研究を比較する際にあまりに恣意的であると比較の出発点がなくなってしまう(「ゑ」の回転部の歴史はいつになったら描けるのだろうか)。平仮名字体史の進展のためには、あまり感覚だけでやらないことが望ましいことに疑いはない。

字体評価に現行の平仮名が多いかいなかという視点は取らない

上に述べたことの繰返しにはなるが、現行の平仮名という字体集合と適合するかいなかは歴史を見るうえであまり意味をなさない。人工性に加えて、「ゐ」などのようにほとんど歴史的に複数字体を有しないものも多く、現行の平仮名が多く用いられるカテゴリが多いのは当然なのである。用いられる字体の特徴は、同時代・前後の時代の資料との比較なくして明らかになるものではないのである。

用法の区別と字体の区別を混同しない

字母は同一であるが形状の異なるふたつの仮名について、用法の区別(語頭・非語頭の区別その他なんでもよい)がないから字体の別ではないという論がある*3。古典学者としてはそういうことが言えるほうが恰好いいのかもしれないが、論理としては成り立っていない。似たようなところで、用法の発生によって字形から字体に格上げという言い方もある。

那辺に問題があるかといえば、用法の異ならない字母の異なるふたつの仮名については字体の差といいつつ、同様に形状が異なる「だけの」ふたつの仮名については字母が同じであるから字体としての差を認めないという点である。さきにも述べたように出自が違うことに特権的地位を認める根拠がない。また、用法の差が字体の差にとって肝要である根拠もない(あるとも思えない)。あるいは、条件異音が別音化することに準えたのかもしれないが、発声器官の構造に起因する異音と、一定の形状を選び取って書く異体とには対比に限度があり、無理がある立論である。

おわりに

平仮名字体研究の方法論上守られるべき水準について検討した。繰り返すが、各人の見たいものについて適切な水準を確保することが重要で、それについて上記事柄は最低限度に属す。しかしながら、特殊な例外を除いて、上記の基準では荒すぎることはあっても、細かすぎることはない。

*1内田宗一氏が取り組むような万葉仮名に由来する特殊な文字遣はべつとして

*2http://www.academia.edu/2648352/For_diachronic_corpus_of_hiragana_grapheme

*3字体史のすぐれた研究者がさいきんもそのようなことを言っていて目を疑った

2014-01-06

歴史的仮名遣批判の基礎知識

| 10:47 | はてなブックマーク - 歴史的仮名遣批判の基礎知識 - scriptus ante-scriptus

もしわたしの後輩(学部3年でも修士1年でも)が「歴史的仮名遣卒論/修論を書きたいんです」と言ってきたら,わたしはつぎの本と論文のリストを渡して「分らないところがあったら聞いてね」と言って済ますだらう。かれ/かのぢょが歴史的仮名遣批判的であらうとなからうと*1

  • 福嶋直恭2008,書記言語としての「日本語」の誕生: その存在を問い直す,笠間書院
  • 長谷川千秋2016,『和字正濫鈔』は仮名遣書か,国語文字史の研究15,xx–xx

Enlarged in 15 July 2016

基礎知識を得たいからには上記の本くらゐ当然読みこなしていただきたいので,以下に書くはなしは基礎知識の前知識としか言へないものである。

歴史的仮名遣根拠

歴史的仮名遣は,かつてそれをもって表記されたことのない体系である。山内1979は,歴史的仮名遣のもとめる表記のしわけと完全に合致する時代の絶えてなかったことを示し,「古典かなづかい(引用者注歴史的仮名遣のこと)とは,契沖以下の諸学者が「いろは」四十七個の「かな」をもって,八・九世紀の万葉がな文献の用字法を整理してえたところの虚構である」と結論する。

山内1979では,歴史的仮名遣の表記のしわけの体系をつぎのごとくまとめる。

  1. /e/と/ye/は統合してゐる
  2. 語中尾の/p/は/w/になってゐない
  3. /o/と/wo/を区別する
  4. /i/と/wi/を区別する
  5. /ye/と/we/を区別する

しかるに,これは「いろは歌」になら存在する体系である。いろは歌は,「いろは歌成立当時の音韻を網羅したもの」ともいはれるが,濁音も含まないそれは,「当時通用のかなを網羅したもの」といふべきである(馬渕1971*2)。

歴史的仮名遣の歴史的背景

歴史的仮名遣成立の背景に,万葉集の研究を進めるなかでその仮名用法に条理を発見したことだけではなく,契沖のいろは歌と五十音図への傾倒のあったこと,諸家の指摘するごとくである(山内1979,迫野2005,釘貫2007)*3。その条理を契沖の書いたごとく表記の差と意味の差を直結させて考へるか(永山1943,迫野2005など),過去の音を聞いてゐたのか(釘貫2007)は,当面問題ない。契沖にとっては聖なる言葉である梵語に基づいた五十音図に日本語の「音」がすべて収ることがとても神聖なことであって,いろははその「音」をもとに空海が作ったものだから神聖であって,それ以上の複雑なものが上代語にあったとは思ひもよらなかったのではないか。

なにはともあれ,歴史的仮名遣はいろは歌といふ仮名尽しのひとつひとつの使ひわけといふ枠が最初にあったことは見ておくべきである。そしてそれは宣長以降も維持されたままであった。その間,たとへば上代の仮名の研究をした石塚龍麿,ヤ行の江とア行のエとが異なることを示した奥村栄実など,いろはの枠を打ち破ってそれまでより「本来的」な仮名遣にする機会はあったにもかかはらずである(築島1986)。

いろはの枠組みが続いた理由は,石塚や奥村の研究がひろく知られなかったことも大きいが,これは,五十音図を奉じる機運が和学者のあひだで高まり,ヤ行のイやワ行のウを(そしてヤ行のエも),存在を確認できたからではなく,五十音図に穴があるはずもないからといふだけで,創作してしまったことによる。これを音義派と呼ぶが,明治初年,音義派を葬ると同時に明治政府の採用する仮名遣としては,いろはの枠組みで行くことが宣言されてしまった(古田1978)*4

それ以後,大矢透があらためてヤ行の江とア行のエの差を立証するが,すでに表音化するかそのままでゆくかで大議論となってゐた国語教育界で歴史的仮名遣の拡張など考へられもせず*5,だから橋本進吉石塚龍麿を知ってからもいはゆる上代特殊仮名遣歴史的仮名遣に適用する機運などありもしなかった。

このやうな歴史的背景のもとに歴史的仮名遣は成り立ってゐるのである。

余談

歴史的仮名遣は例外がすくないといふのも広く行き渡ってゐる信念であるが,そりゃあ「語」本来の表記に従ふといふルールを立てた時点でルールのなかに例外を立てるところはないのである。それをもって覚えることがすくないといふのは,だから,あやまりだ。山田・小島・山田1943の山田孝雄の序,山田忠雄の補記を見れば,覚えることのひとかたならぬことなど明白である。

「覚えること」とはなにかといふに,ひとことでいへば現代のことばと乖離したところだと思ふ。それは音韻であったり,形態論morphologyであったりの変化によって引き起こされ,「直感的に」理解しがたいものを生む。だから現代仮名遣いの「お」の長音表記の例外はおとなになっても間違へるのだし,歴史的仮名遣と現代仮名遣いが一致してゐるところでも,育った方言によっては,たとへばじ・ぢ・ず・づのいはゆる四つ仮名を区別しない方言で育ったひとには,口語体の文章を書くのにそのよっつを誤りやすいといふことが知られてゐる(とはいへ,そこまで統合の進んでゐない,たとへばじとぢ,ずとづを区別しない——日本語のかなりの——方言でも,どちらを書いてよいか分らなくなることがあるのは,ふるくに『蜆縮涼鼓集』のあったことから明らかである)。

明治国語学者のゆめは,ひとつの方言にかたよらない標準語を作ることだった。それが現実のものにならなかったことは言ふまでもないけれど,だからといって,表記を権威方言たる東京方言に表音的なものにせしむるほど,その他の方言には脅威ともなる。たとへば合拗音表記の廃止がその残る方言における弱化を早めたらしいことはつとに知られるし,その意味で,表記がひとつの方言にかたよるのは好ましくないのである。屋名池2008の見解も,似たやうな文脈から理解されるべきである。まあ,革新の進む方言の邪魔をするのも保守的表記なのではあるが。

*1:題名は,なので,ちょっとキャッチーにしたかっただけですごめんなさい石を投げないで。

*2:山内1979はヤ行のエのないことを不審とするが,いろは仮名にはア行のエがないのであるから,問題ではない。矢田勉1995/2012,平仮名書きいろは歌の成立と展開(原題「いろは歌書写の平仮名字体」,国語文字・表記史の研究,汲古書院)参照。

*3:なほ,馬渕1959は「儒学復古主義によって端的にあらわされている時代精神が,契沖をして,古文献に基礎をおくかなづかいを発見せしめた」と述べる。

*4:ここに亀井孝のいふ「明治欽定仮名遣」の姿を見ることは難しいことではない。亀井孝1973,契沖かなづかい雑記,契沖全集月報5。なほ,欽定の意味が分らないひとがゐるみたいだが,いふまでもなく政府の権威がなければひろまらなかったといふ揶揄である。

*5:いまの目からは奇妙かもしれないが,当時にあっては国語国字問題はそのまま国語教育の問題だった。

2013-01-04

妄想リーディングズ

| 13:19 | はてなブックマーク - 妄想リーディングズ - scriptus ante-scriptus

さいきんの日本ではめっきりないけれど(日本語学言語学でいへば,『日本の言語学』大修館,『論集日本語研究』有精堂くらゐなのかな?),英米ではリーディングズといって,重要な(といふと語弊があるか,うーん,まあ,その学問における理論的な背景をかたちづくる)論文をまとめたものが現在でも出てゐるさうなのです。なんとなく平仮名史でリーディングズを編めるならなにを入れたいか,独断と偏見で選んでみました。なほ,仮名遣は入れてません。年代順。

  • 春日政治(1941)「仮名の沿革」。のち著作集1
  • 亀井孝(1970)「かなは なぜ 濁音専用の 字体を もたなかったか—を めぐって かたる」。のち著作集5
  • 安田章(1971)「仮名文字遣序」。のち『仮名文字遣と国語史研究』
  • 迫野虔徳(1974)「定家の「仮名もじ遣」」『語文研究』37
  • 浜田啓介(1976)「板行の仮名字体」。のち『近世文学・伝達と様式に関する私見』
  • 伊坂淳一(1988–1992)「藤原俊成の用字法・試論」『学苑』577, 578,『千葉大学教育学部研究紀要』38 (1)-40 (1)
  • 矢田勉(1995)「いろは歌書写の平仮名字体」。のち『国語文字・表記史の研究』

亀井論文が長すぎて全尺入れたらほかの論文が入らなくなるなw 読み癖関係でなにか入れたいが,いいのが思ひつかない(みんなが引用するやうな論文……?)。

2011-10-23

山口(2010)『ん』からはじめる思ひめぐらし: (a) 参考文献

| 22:17 | はてなブックマーク - 山口(2010)『ん』からはじめる思ひめぐらし: (a) 参考文献 - scriptus ante-scriptus

さきを 書きさうに ないので。

参考文献

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  • 浜田敦 (1986). 「促音と撥音」『国語史の諸問題』 (pp. 38-89)、和泉書院。(原論文1960年
  • Haspelmath, M., Dryer, M. S., Gil, D., & Comrie, B. (eds.) (2005). The world atlas of language structures. Oxford: Oxford University Press.
  • 肥爪周二 (2000). 「日本韻学用語攷(一): 清濁」『茨城大学人文学部紀要人文学科論集』33: 17-38
  • 肥爪周二 (2002). 「ハ行をめぐる四種の「有声化」」『茨城大学人文学部紀要人文学科論集』37: 97-118
  • 肥爪周二 (2003). 「清濁分化と促音・撥音」『国語学』54 (2): 108-95
  • 肥爪周二 (2008). 「撥音史素描」『訓点語と訓点資料』120: 12-27
  • Keegan, J. M. (1997). A reference grammar of Mbay. München: LINCOM Europa.
  • 北村甫・長野泰彦 (編) (1990). 『現代チベット語分類辞典』汲古書院
  • 窪薗晴夫 (1995). 『語形成と音韻構造』くろしお書房
  • 黒田成幸 (2005). 「促音及び撥音について」『日本語からみた生成文法』(pp. )。(原論文は1967年)
  • Ladefoged, P., & Maddieson, I. (1996). The sounds of the world's languages. Oxford: Blackwell.
  • Ming, C. G. (2005). The phonology of Guangzhou Cantonese. München: LINCOM Europa.
  • 中川裕 (2006). 「アイヌ人によるアイヌ語表記への取り組み」塩原朝子・児玉茂昭(編)『表記の習慣のない言語の表記』東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所
  • 斎藤純男 (2003). 「現代日本語の音声: 分節音と音声記号」上野善道(編)『朝倉日本語講座3 音声・音韻』(pp. 1-21)、朝倉書店
  • 迫野虔徳 (1987). 「中世的撥音」『国語国文』56 (7): 41-52
  • Shibatani, M. (1990). The languages of Japan. Cambridge: Cambridge University Press.
  • 高山倫明 (1992). 「清濁小考」田島毓堂(編)『日本語論究2 古典日本語と辞書』(pp. 17-56)、和泉書院
  • 高山倫明 (2006). 「四つ仮名と前鼻音」『筑紫言語学論叢II: 日本語史と方言』(pp. 158-174)、風間書房
  • Thayer L, & Thayer J. (1971). 50 lessons in Sara-Ngambay. vol. 3. Bloomington: Indiana University.
  • Thompson, V. M., & Adloff, R. (1981). Conflict in Chad. Berkley: Institute of International Studies, University of California.
  • 上村幸雄 (1989). 「現代日本語 音韻」亀井孝ほか(編)『言語学大事典』巻2 (pp. 1692-1716)、三省堂
  • Welmers, W. E. (1973). African language structures. Berkley: University of California Press.
  • 山口佳紀 (1982). 「促音や撥音ははたして中国語の影響か」『国文学 解釈と教材の研究』27 (16): 79-83

2011-05-05

上田万年「促音考」

23:33 | はてなブックマーク - 上田万年「促音考」 - scriptus ante-scriptus

上田萬年 促音考 - 国語史資料の連関 - 国語史グループを訳しました(近代デジタルライブラリー書影をもとに直した箇所もありますが,ほとんど訳には出てきません)。この考察に元ネタがあるのかどうか——すなはち,上田の研究にかかるのかどうか,あまり調べてません。管見のかぎり,「P音考」のごとく,大槻やチェンバレンに習ったところはそんなになささうです(大槻は『広日本文典』『同別記』,チェンバレン口語文典しか調べてませんが)。ほかのひとによってゐたり,調べもれがないとは言はないのですが。

このやうな説は,ローマ字表記にはほとんど影響を及ぼさなかったといへますが,促音の解釈について,現代においても根強い解釈のひとつ——モーラ音素——の源流のひとつなのかもしれないな,と思ひます。

その論においては,入声と促音が区別できてゐないやうなところ(之を語源的にいへば、前のシラブルの子音は、後のシラブルのかしらの子音と、同音ならでも可なるものなれば、必しも同音に書くいはれなければなり)もあり,サ行音の促音を二次的なものとするのも疑ひなしとしません。この「二次的」な促音は'を使ふべきとしてゐないのに,文章の後段ではそれを忘れてしまってゐるのもへんなはなしです。実例を検討したところも,たぶん用語の使ひかたがぜんぜん違ふからなんでせうけど,意味がよく分りません。有坂でも読めば分るのだらうか(まへとかあととか,指示がはっきりしないのでやめてほしいのだけれど)。

けっきょく,各論に見るべきところはとくにありませんが,個人的な興味で訳してみるものです。

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