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2009-06-19たまには更新(こっちのブログの使い方を模索中)

第四種動詞=痕跡表現@国広 (2005)

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国廣哲弥,「アスペクト認知と語義:日本語の様態副詞と結果副詞を中心として」,武内道子=編『副詞的表現をめぐって』東京:ひつじ書房,2005年.


金田一 (1950) の古典的な4分類について:

この分類は現時点から見ると,まさに動詞語義のアスペクト的分類であった.アスペクトは何らかの動きの時間的流れをどのように心的に捉えるかの問題であるので,第一種の状態動詞は除かれる.金田一分類で「第四種」とのみ名付けられ,意味的な分類名が見られない動詞は,「ている」を付けないと使えないという得意な性質をもっているのに,その正体がつかめないというので名付けようがなかったというのが名無しの理由であるが,今はその正体ははっきりしていて,第四種動詞は筆者が「痕跡表現」と名付ける使われ方をしていたのである.

(p. 35)


痕跡表現

痕跡表現については国広哲弥 (1985) に詳しいが,簡単に言うならば,ここには人間の「痕跡的認知」という一種の認知方法が関わっている.これは,物の形や位置関係を,実査にはそうでないけれども,比喩的に「あたかも変形や移動の結果として眼前に見える形や位置関係をしているかのように捉える」認知方法である.「聳える」を例に取って説明するならば,「聳える」は本来「何かが見上げるような高さまで変形する」という変形動詞の1つであるが,「山」など眼前で変形することはまず見ることはできない物についても,「あたかも,“そびえる”という変形をした結果であると言えるような形をしている」と捉えて,そのように言語表現したのが,「野原の向こうに山が聳えている」であると考えるのである.変化の結果を表現しているのであるから,当然 結果状態を表す「ている」が付けられる.結局第四種動詞は変化動詞に属するものであることになる.

(p. 35)


さらに:

註1


ここで筆者が「痕跡的認知」によると言う言語表現と同類の現象が山梨正明 (2000) の§3.3.3 に「移動の知覚的痕跡と軌道のイメージ」として扱われている.しかしそこでの考え方は明らかにことの本質を捉えそこなったものと思われる.山梨は次の例を出して説明している.

12. a. 突堤が海に突き出ている.

b. 半島が東に延びている.

c. 山が海に迫っている.

12 の a と b の例では,突堤ないしは半島を一方向に目で追っていく視線の移動が「突き出ている」,「延びている」という述語によって表現されている.12 の c の場合には,山から海への認知主体の視線の移動がかかわっている.ただし,この場合には,認知主体は,海の側に視座をとって山と海の地理的な関係を把握している.この視点の投影によって,「迫っている」という表現が可能となっている.


山梨の説明では,こういう表現の裏には視線の移動がある,と言うのであるが,それでは次のような痕跡的表現の場合にはどう説明するのであろうか.


(i) この線は真中が切れている.

f:id:optical_frog:20090619042955p:image


 まさか視線が線を切ったのだとは言えないであろう.筆者の考えでは視線はまったく関係がなく,この線の途切れは,「線の真中をあたかも何らかの方法で切った跡であるかのような形をしている」と捉えられている(認知されている)のである.視線の問題ではなく,認知のし方の問題である.


(ii) この四角形は角が一つ落ちている(欠けている,切れている).

f:id:optical_frog:20090619042956p:image


(ii) の例でも視線は無関係である.欠けたりして無くなった角は視線ではたどりようがない.この場合,我々の認知では,まず角の欠けていない四角形があったと想定し,その角が何らかの事情によって欠けた結果の形が目の前にある,と判断したのである.現実には最初から五角形が目の前にあるのに,人間はそのような認知のし方をするわけである.

 ここで山梨の示した例に戻ろう.(12a) の「突堤が海に突き出ている」という表現は,まず比喩的な表現であることを確認しておく.現実に突堤が自分で形を変えるわけがないからである.しかし自分で形を変えられる生物になぞらえて,「あたかも自分で海中に突き出た結果であるかのような形をしている」ということである.(12c) 「山が海に迫っている」も同じように説明される.擬人的に捉えられた「山」が「あたかも海に迫ってきた結果であるかのような位置にある」ということである.「迫る」という動詞は,「相手に心理的な圧迫感を与えるほど近くまで接近する」という意味である.「迫る」を使うことによって,山と海のあいだの距離が普通以上に短いことを伝えようとした表現である.山梨はこの表現について,「山から海への認知主体の視線の移動がかかわっている.」と説明しているが,この場合,表現者の視点は山と海の両方を視野に入れ得るような客観的な位置にある.「突き出る」とか「迫る」とか「延びる」とかはそれぞれ異なった出来事を指すが,山梨説のようにすべてを視線の動きにしてしまうと,その差異はどこかに消えてしまうことになる.


(iii) 駅前には商店が集まっている.


 これも痕跡的表現である.これは商店が狭い範囲に密集していることを表現しているが,これを視線はどう捉えようとするのであろうか.これも「あたかもあちこちに散らばっていたたくさんの商店が駅前めがけて移動してきた結果であるかのような密集状態にある」と言っているのである.

 以上,筆者が痕跡的表現と呼ぶものには視線ないし視点の動きは無関係であると述べたが,ほかの方面でも無関係であると言っているのではない.例えば 'There is a small room /to/ the back of the house.' (家のうしろの方に小さい部屋がある)という場合,視点は家の前の方からうしろの方に心理的にたどって行っていると言える.to の代わりに at を使えばその視点の移動は消える.



cf. 寺村 (1984: 136)


(…)いわゆる瞬間動詞の場合,また,幅のある動作,現象の終わりが意識される場合,眼前にある状態は,動詞~テイルの表わす事象と,直接には(あるいは当然には)結びつかない.たとえば,

(47) 金魚が死んでいる*1

というのは,「結果の状態」を表わすといわれるけれども,話し手は(ふつう)金魚の死ぬところを見たわけではない.眼前にあるのは,金魚鉢中で,動かずに浮かんでいる,そういう状態があるだけである.

(48) 財布が落ちている

(49) 家が倒れている

などについても,同じことがいえるであろう.あるのは,ただ,地上にある財布であり,横ざまになった建物である.人はそれら眼前の現象を,ある過去に起こった事象(死んだ,落ちた,倒れた)の痕跡〔傍点〕と解釈し,それを上のように表現するわけである.


ここで指摘されている「痕跡」は,現に起きたであろう状態変化の結果状態をさす.国広のそれは,「あたかも~かのように」という現実にない状態変化を想像し,その結果状態として状態をとらえることをいう.

*1:カタカナをひらがなに直して引用.以下同様

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